由 緒

当社の由緒は詳らかではありませんが、古老の伝えるところによれば、往時信濃国の諏訪大社より勧請。諏訪明神と称しました。境内に諏訪湖に似た池があり、これを招神池といい、後年になって庭地になったといわれています。
安政二年(1855年)正月の十一日に地頭へ願い出て許を受け、文久二年(1862年)八月に社殿を建替えしたとの記録があります。旧社殿の棟札によれば、享保十七年(1732年)三月再建と記載してあることから、創立年代が古いことは間違いないようです。
その後、大正七年に弊殿および拝殿を造営して現在の社殿の形状となりました。
上野国神名帳(西郡部)に従三位諏訪若御子明神とあるのは当社のようです。 天明年間に別当所が災禍に合い、このため古記・古文書等が焼失しており古事は不明です。

社紋は、楮の葉なり。
本殿は、一間社流波風造、一坪なり。
御神木は柊の大木なり。
境内地は六百七坪なり。
末 社
稲荷神社

ご祭神は、倉稲魂神です。
その昔、宮司の屋敷の真裏に稲荷山という円墳があり、そこにお祀りされていました。
大正二年に、稲荷山より現在の地に移築され、その後、大正七年に稲荷山の土をひいらぎの森(古墳)の南面に盛り土して、現在の諏訪神社の拝殿と弊殿を増築したと言われています。
このお稲荷さまには昔から高崎の町内からも多くの商人が参詣に来たということで、当時の献額などもあります。
お稲荷さまを深く信仰していた、五万石騒動で有名な丸茂元次郎翁には、お稲荷様が身代わりに立たれ、直訴に行った江戸の町中で彼を助けられたという話が残っています。その時の麻縄が有名な「ぬけ縄」であり、貴重なものとして当社に保存されています。





八坂神社

この社は素盞之鳴命神をお祀りする社です。
その昔、宇名室と岡の両地においてそれぞれ別にお祀りしていたようです。
文久二年にこの地にチフスの大流行があり、その年に御本社の建替えをした際、旧社殿を現在の地にすえて両地より八坂神社を御遷しして伝染病を鎮める為にお祀りしたものだといわれています。
八俣のおろちを退治したこの神様の御神徳により、荒ぶるものを鎮めまつる御霊力におすがりした信仰であったようです。
現在では宇名室の人々によって毎年七月十五日にお祭りが執り行われています。
当社においてはこの八坂神社の社殿が今では一番古い建造物となっております。
境内・宝物
地神尊

その昔、現在の新堀の加工場のある所に郷倉屋敷といって、年供米をしまっておいた倉屋敷があったそうです。この「地神尊」はその屋敷に祀られていた神様です。
読んで字のごとく、地神であり、地の神のお力により五穀豊穣を祈念して、お祀りしていたものと思われます。
大正の初めの頃までは、夏祭りが毎年盛大に行われて、新堀・下内出は獅々舞を、宇名室・岡・反町鍛冶屋敷を三側の山車を繰り出して夜の更けるまで神振行事が続いたそうです。
手玉石

当社には珍しい石があります。力石とも油石ともいわれている卵型をしていた石で、直径は27センチ・長さ70センチです。いつの頃からか村の青年達が力競べをして担いだ石だと言われています。
宇名室の吉井己之吉氏の門口にあったものを御大典記念に神社に納めたものだといわれています。
目方は28貫あり、落とすと鉄の様な音がするといいます。今ではとてもこの石を担げる人はいないでしょう。
当時は米俵を一俵づつ担いだ時代であり、このような石が、岡にもあり(23貫8百)、高関にもあって、明治・大正の青年達は、担いで持ち去ったり取り返ししたりして力競べをしていたといわれています。
この「手玉石」には当時担いだ人々の魂が篭っており、当時の農民の力の程と農村の状態を知る後世への語り草として貴重な「石」です。
古劒
御神宝として折半した古劒がありますが、往古より他見を許されていません。
本殿の彫刻

本殿の右側にあった彫刻「翁像」は文久元年五月、東都日本橋の木彫師、後藤三治郎橘恒徳作によるものです。左右に新たに「神武天皇御姿像」と「天の岩戸開き」の彫刻をおさめ、他に社明額一枚を新調しました。
彫刻師は、伊勢崎の池田雅信氏。
ぬけ縄

五万石騒動の時、江戸へ直訴に行って丸茂元次郎翁が捕えられた時の麻縄で、どこも解けてなくいわゆる「ぬけ縄」です。
高崎五万石騒動(たかさきごまんごくそうどう)は、明治2年(1869年)に高崎藩の城付5万石領内で起きた大規模な年貢軽減を求める農民一揆で、凶作と重税に苦しむ農民が代表を立て、整然と高崎城下へ行進(城押し出し)し、嘆願した事件です。藩主は一部の減免を認めず、代表3名(佐藤三喜蔵、高井喜三郎、小島文治郎)は処刑されましたが、後に政府に訴えが認められ、彼らは義民として語り継がれています。
道祖神夫婦像

年代のところが破損しているので不詳ですが、夫婦像の仲睦まじき様が巧みに造られていることが一見してわかります。岡地区と合併が成った時のものです。
古墳について

当神社は古墳上に鎮座されております。円墳にて稲荷塚古墳と称されております。
この古墳が築かれて千数百年の星霜を経て、平成二十八年に高崎市教育委員会により初めて試掘調査が行われました。



二日間に亘る調査の結果、遺物品の出土が僅か数点であったことなどによりまして、四世紀後半に築造されたものであることが分かりました。
当地域から離れた場所には、有名な将軍塚古墳・浅間山古墳などがあり、それらの古墳も同時期に築かれたようです。また、当神社近くに塚跡がありますが、ここからは平成二十年に中国製の青銅鏡の破鏡が発掘されております。大変な発見です!
当神社の古墳に葬られた主が生前当時に、もしや前述のことらと何かしら関係があったのではないかと、勝手に推測し夢膨らませております。
いずれにしましても、当神社の古墳は、相当古い古墳であります。ここ上中居町周辺には、今や古墳や塚は一基も存在しておりません故、小さな円墳ではありますが、今後も大切にお守りしてゆく所存であります。
